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聖ヨハネ共同体
Hans Urs von Balthasar
Original title
Die Johannesgemeinschaft
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Specifications
Language:
Japanese
Original language:
GermanPublisher:
Saint John PublicationsTranslator:
Riyako HikotaYear:
2023Type:
Article
聖ヨハネ共同体は、苦難の大海の上に築かれています。苦難とは、肉体的苦難も然りですが、とりわけ霊的苦難、すなわち、神に見捨てられること、暗夜、陰府降下などのことです。これらについては、まもなく公刊される、私がアドリエンヌ・フォン・シュパイアの霊的経験について取った記録において読むことができます。彼女が私と一緒に創設した共同体の原案を作ったということは、『私たちのミッション:報告と計画』(Johannes Verlag, Einsiedeln 1984)で読むことができます。この書ではまた、この共同体の概観全体についても提示しています。アドリエンヌの苦難という「岩」の上に建てられた聖ヨハネ共同体という家は、教会内外に吹き荒れることが予測されるすべての嵐に耐えることになるのです(マタイ7:25)。
なぜ、(アドリエンヌがその書すべてに詳細な注釈をつけた)聖ヨハネを、私たちの守護聖人として選んだのでしょうか。なぜなら彼は愛の弟子であり、神人イエス・キリストの神秘に最も深く立ち入り、御父への愛と従順からイエスはキリストだと認めた人だからです。なぜなら彼は、ペトロが率いる教会に聖母を迎え入れるため、童貞として、おとめである聖母を自らの家に受け入れねばならず、そうすることで「聖なる汚れのない教会(sancta immaculata ecclesia)」(エフェソ 5:27)と目に見える「使徒的教会(apostolica ecclesia)」とを一つにした人だからです。なぜなら彼は、愛する者として最後まで残りながらも(ヨハネ21:23)、常に後ろに控える存在であり続け(イエスが「[ヨハネを含む]この人たち以上にわたしを愛しているか」と問いかけられた相手はシモン・ペトロ(ヨハネ21:15))、最後にはまるで隅っこに追いやられてしまった人だからです(3ヨハネ 9-10)。聖ヨハネの霊においてこそ、私たちは福音的勧告を実に大切にし(清貧は今日基本的には自明のことです)、主が福音において意図されているように、真剣に福音的勧告を捉えようと努めるのです。
私たちは「在俗」の共同体でありたいと思います。なぜなら、イエスはまさに世俗的な世の中へこそ、ご自分に従う者たちを遣わされるからです。イエスは彼らを、まるで羊のように狼の群れにさらされます。そのように世にさらされた状態で完全にキリスト者であることは、キリスト者の間でキリスト者であることよりも困難であり、私たちの共同体の3つの支部のどの支部――すなわち、在俗司祭、世俗の職業に就いている男性信徒と女性信徒――においても、より困難であることは同じです。世俗化した教区にあろうと、非キリスト教的職業的環境にあろうと、各人は自分の任を果たすべきです。もちろん、同じ状況にある仲間の兄弟姉妹がいるという意識に支えられ勇気づけられはしますが、それでもこのような状況の福音的孤独を、非福音的な「大家族」というような発想で取り繕うべきではありません。小さな集団で共同生活をすることは、とりわけ女性信徒支部にとっては望まれますが、それが常に実施できるわけではありません。私たちは会って、意見交換したり切磋琢磨したりしますが、在俗司祭たちの場合には、互いに会う期間がどうしても空いてしまいます。これは所属の司教区の他の聖職者たちとの同僚的関係を妨げないためです。私たちの共同体の司祭たちの集会で神学的、司牧的テーマが扱われる際には、彼らの所属司教区の兄弟たちもそれに参加することができ、彼らは本共同体の会員でなくとも構いません。
私たちは、第二ヴァチカン公会議後の教会編成が直面する最大の危険に対し、意識的に立ち向かいたいと思っています。それはすなわち、自らを「救いに至る唯一の」運動や派とみなし、自らの大義名分を宣伝することに過度な量のエネルギーを費やすという危険です。教会においては、何か効果的なことがなされた際に、数が重要であったことは決してなく、むしろ個人の信頼性、その証の力が大事なのです。種蒔きのたとえ話が正しいことは何度も証明されています。つまり、小さな種が良い土地に落ち、すべての損失を補って、百倍もの実を結ぶのです。私たちは意識的に、世においても教会においても、権力を追求しないようにしています。というのも、パウロの次の言葉は永久に真実だからです。「わたしは弱いときにこそ強い」(2コリント 12:10)、「神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさい」(1コリント4:9)、「死にかかっているようで、このように生きて」(2 コリント6:9)いる。
私たちの共同体の会員は、(今日も何ら変わっていない) 2000年来の信仰を知り、それを生きる一方で、今日の世界のすべての問いについても精通しているべきです。私たちは神学的に「右」でも「左」でもありません。そのようなカテゴリーは私たちには当てはまらず、政治的分類に関しても然りです。しかし、私たちは自分たちの信仰を薄めて、使徒職的に役に立たないものとさせはしません。今日(とりわけ神学部の学生にとって)、神学という学問のすべての行き過ぎをはっきりと見分けつつ(もちろんそうすべきですが)、それと同時に比類なきイエス・キリストの大義への熱情を生き生きと保つことは難しいです。また一般信徒にとっても、性と無神論の氾濫する私たちの社会の中で生きつつ、同時に、イエス・キリストの受肉という要点に目をつぶることなく、独身生活の実り豊かさへの理解を保つことは難しいです。しかし、私たちは、神聖な孤島に生きるロビンソン・クルーソーのようにはなりたくありません。キリスト教は、明らかに、反対に遭うところでこそ最も栄えるのです。そのことは、東方の国々が私たちに教えてくれています。そして、西欧でも、徐々に、カトリック教会は、人があらゆる誹謗中傷しても咎められることがない唯一の対象になりつつあります(既にパウロは自分たちを「世の屑」と呼んでいました(1コリント4:13))。このこともまた、福音的清貧の一部であり、今日特に新たな意味合いを帯びています。
もちろん、私たちは影響力のある地位を(もしそれが私たちに割り当てられた場合には)拒絶するわけではありませんが、そのような場合には、権力と支配の危険に対して二重に用心しなければならないでしょうし、また、かつてラテン・アメリカ征服の際にされたように、十字架の前に剣を運ぶようなことはしません。貧しい人々と無力な人々への積極的関与が福音の核心であり、この点に関する司祭と一般信徒との違いは、そのような積極的関与がなされる形式だけです。そして、私たちの共同体の各会員には完全な積極的関与が求められますが、「成功は神の名前の一つではない」ということも私たちはわきまえています。
この共同体全体は、創立者アドリエンヌ・フォン・シュパイアが深く経験し、その著作において比類ない仕方で表した神学に依拠しています。「神秘主義」という曖昧な言葉はここでは避けたほうがよいでしょう。私が言っているのは、本来の意味での預言の賜物、すなわち、「神が何者であり、神が何を望んでいるか、今日言うことができる」という賜物です。アドリエンヌの生涯と著作は、シャルル・ペギーが「源泉回帰(ressourcement)」と呼んだところのもの、すなわち、源泉において新たに創造し、新たにされることにとって、無尽蔵の宝庫です。私たちが確信しているのは、バシレイオスからアウグスティヌス、イグナチオ・デ・ロヨラに到るまで、大修道会においてそうであったように、創設者が生きて定式化した霊的神学こそ、その後何世紀にも渡って(ベネディクト会の場合は1000年以上も!)その修道会員たちの実り豊かさを保証するものだ、ということです。だから、今日の世の在俗会においても、それ以外の原則は当てはまり得ないのです。良い木はその実によって見分けることができるはずですが、その木あるいは根、またはぶどうの木は、常にイエス・キリストです。そしてイエス・キリストには、唯一無二の存在でありながら、ご自分が選ぶ者たちを「ぶどうの木であること」にも与らせる力があります――ご自分の存在と所有するすべてに与らせるように。そのような召命がどれほど多くの祈りと苦難を必要とするかは、歴史が示しており(例えば、アッシジの聖フランシスコのことを考えてみればよいでしょう)、またアドリエンヌ・フォン・シュパイアの日記もこのことを独自の仕方で証明しています。とはいえ、アドリエンヌ自身は自分が聖人に間違えられはしないかという深い恐れを、何度も表していたのですが。
私たちの共同体の会員は、観想的祈りにおいて絶え間なく刷新されることによって、この世に積極的に関わり続け、そして、それによって自らも、渇いている多くの人々のための泉となるべきなのです。
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